昭和48年11月11日  特別奉修委員


 生神とはここに神が生まれるということであってと、申しておられます。この方だけが生神ではない、皆もそのようにおかげが受けられると。これは私、自分の心の中に生神が誕生する、いわゆる有り難いと、真に有り難いと感ずるその心そのものが生神だという風に信じます。
 今、私が今日あらためて分からせて頂いたことはね、生神とは自分の心の中に生まれるという事だけじゃないという事、自分の周辺に生まれるという事、神がここに生まれるということ、という働きをね、させてもらう、それができるようになるという事が生神なんです。それですから、それがもういつもできるような働きということね、それを、どういう事かというと、今日、先ほど、今の御祈念前に指出のここの部落の、久保山さん、おんなさいます。今お届けされたんですけれども、これは皆さん、私は信心のない以前は家計簿をこうずっとつけよりましたと。ところが信心させていただくようになってから、もう今までより、いわば、大事に信心のお初穂用とこう供えるなんかというようなものが、だんだんかさんでまいりますから、もうつけません。だいたいつけたがええでしょうか、どげんがええでしょうかとこういうわけなんですよ。だから、それはね、つけないが本当だよというて申しましたことでした。それはね、信心が無いならば一つの、今月はもういくらしか入らんから、いくら使う、為には日々いくらしか使えんといったような意味合いでもね、その、一つの、まあパロメーターになるわけですから、たいへんまあ便利かもしれませんけれども、それはただ必要なだけが必要、その、困らないようにするだけのことであってね、だから信心でおかげを頂くということはそんなものではない、というてお話した。それが実は本当にですね、その、(つがめ?)が合うていくというわけです。お参りしよらなかった時、なら、お供えやらぜんぜん、毎日相当の金額のお供えをさせて頂くわけですけれども、それがね、なんとはなしに(つがめ?)が合うてくる。一年なら一年締めくくってみると、なるほど、あの、今まで、まあ、分かりやすく言うならばですよ、お医者にいくら払いよった、罰金も払いよった、税金もこげんじゃったといったようなものがですね、とにかくまあ、厳密に一年締めくくってみると、まあそういうような事がおかげを頂いて(つがめ?)が合うていきよるというようになるんですけれども、もうそのへんももう理屈じゃないようです。玉水の湯川先生が、皆さん昔の人ならば、もうそれこそ日本一の先生と言われ、日本一の御ひれいをたてられた方なんですけれども、あちらでは、特に経済的な面でおかげをみんなが頂いたんですけれども、金が足りないという時なんかは、金の計算は決してするなと言われたんですね。もうほとんど商売人が多いですから、金庫があって、金庫の中に必ず入れていけと。そして、取りに来たならば、取りに来ただけ払えと。もうお前にげは払わん、どこにどうじゃなかもん、取りに来たつがおかげと思うて払えと。これはまだ来月に取っとかにゃんとか、これはどこに払わにゃいけんてんなんてん言わずに払えと。それで月末に、その、一か月分のそれが分かるんだというような風の事を御取次なさったという事ですね。ところが不思議にその月だけはおかげ頂いて、余る事も足ることもない、丁度良いお繰り合わせを頂いた。今までは赤字ばっかりだった。
 ところがその翌月にです、今度は、その人が、25日の、まああと4、5日で、今月だいたいどんくらいのおかげ頂いたっちゃろうかと思うて調べたっちいう。はあ、まあ、五日間あった、五日間でまあいくらおかげ頂かなきゃ、こりゃ今月は(つづまる)が付かんぞと思うとったっちいう。ところがもう案の定その月末には払えなかったっちいう。それでもう、親先生、もう今月は足りませんでしたっちて言うたら、お前が途中で調べとろうと仰ったそうです。そりゃあそう言われてみると25日の日に調べてこうこうじゃった。もうそこへ人間心が入るということがもうすでに神の働きを、せっかくの働きを、働きの場を無くしてしまうわけです。
 だからこれは金銭だけの事ではありません。時間の事だってそうです。(1になっていかに?)昨日その、田中さんじゃないけれども、さあ、4、5日御無礼をした。それを、( ? )が始まったから。だからそれは普通から言うなら常識なんです。また、神様も、いいや、取り上げはおしてから参って来いなどと仰ることはないです。けれども、本人がその気になっておかげを頂くとです、お参りしとった方がかえって良かったという結果になるです。
 例えば、皆さんも(?)、あの、(?)で済んだとか、もうそこには必ず、一日や二日や暇がいるといらないっちゅう事じゃないです。それの方がおかげになっておるという事実をね、体験したら、昨日、田中さんじゃないけれどもです、だから、(?)の間は御無礼しますっちゅうこっちゃけん、ところが昨日の朝、4、5日ぶりに参ってきて御祈念をさせてもらい、御理解を頂いておる内にたい、やっぱり参らにゃいけんというものに、を感じたと。だからなら(?)の方も参ってきておるわけなんです。
 そこにです、例えばなら神様の働きの場が生まれるのです。いいですか。なら金銭の事だってそうです。時間の事だって。だから、ここに神が生まれるという事は、心の中身だけではないという事。自分の周辺に神の働きが現れる、神がここに生まれると。そういう働きを、ができるような生き方を身に付けた、付けるという事が、生神を目指す道だという事です。
 今日はもう私は、もう初めての御理解です、今の御理解。生神とはここに神が生まれるであってというのは、自分の心に有難いなあと、思わず心の底から湧いてくるもの、それがすでに生神だと。私は、それ、だからこれを育てていく事が生神だと今までは思うておった。また、間違いじゃない、そうなんだ。けれども生神とは、なら心に生まれるだけじゃなくて、自分の一番身近なところに生まれるんです、周辺に。なら、神をその誕生させる働きというのはです、なら今言う、久保山さんでいうならばです、あの、家計簿は付けんで、そりゃもうズルけてじゃないですよ。家計簿は付けんなりに神ながらな生き方というものを身に着けていくところに、一月締めくくって、やっぱり、お参りしない時、お供えしない時も、お供えしても(つがめ?)は合うとったと、いやいや、そんなこっちゃない、本当言うたら、お供えの金額がいくら減っとらんならんとに減っとらん、ただ、(つがめが?)合うとっただけであって、それが力になるのだから有難いのです。そういう、そこに神の働きがあるわけです。
 してみると久保山さん、ほら、お参りのし儲け、いうならば、お供えのし儲けという事になるねと言うてさっき話したことでした。日に日に参って、日に百円ずつお供えすんなら月には三千円もいると、それがなら今の合楽の方なんかは五百円、千円、みんなお供えしておられる。いうなら、二万円も三万円も月の内赤字にならなきゃならないのがです、赤字になっていないという事実がです、そこにもう神を生みなしてるわけです。これが、おかげです。それが、なら今度は五年たち、十年たっていくうちに、それがもう大変な大きな、いうなら財産になっておるようなおかげにもなってくるわけです。
 私はもう今日そのことを頂いてね、本当に、あの、神様におすがりをすると言うても、ただ都合の良いおすがりだけは、だから本当の、いや、今申しますのは、神が生まれるようなおかげにはなってこないと思うわけです。ただおすがりすりゃ、おすがりした事だけは成就してもです、それ以外のものが成就しない。神が生まれるような働きというものがです、だからもう、いうたら、なるほど馬鹿と阿呆で道を開けと仰るがです、もう本当に頭で考える事はいらんという事です。はあ、もう今月はいくら出とるがどうのと、計算ばっかりしよるから足らんごつなるとです。だから、計算をしてはならんじゃないけれども、そこんところの神様の働きを、まず自分の心に頂いて、分からせてもろうてです、そういう事が、いうならば、平気でできれる信心、またはそれを信じきってできる生き方、それを身に着けていくという事がとりもなおさず生神がここに誕生という事になるのです。
 もちろん、和賀心の中に信心の喜びを感ずる、それが即、生神である。けれども、その生神の働きが自分の周辺に現れる、なら、その働きの場というものを、私どんは狭くしてしまっとる。人間心ばっかり使うから。頭でばっかり考えるから。いくらお供えすりゃこげんなるというように考えとるから、いつまでもそこに生神の誕生をみることができんのです。本当、信心にはやっぱり度胸がいるのです。さあ、取り上げの真っ最中だから、お参りせんでも神様は、いや、取り上げの真っ最中でも参ってこんならんとは仰らん。けれども、なら田中さんじゃないばってん、やっぱり参りゃ参った方がいいことが分かって参らせて頂きゃあです、決して取り上げは遅くもならなければ、それで困った結果は生まれてこんと。かえってそれが、神の働きの場というものをそこに作るから、とても、一人が働いたぐらいの事じゃあない働きというものが、時間も何時間使うたぐらいの事じゃない働き、そこに信心のもう、例による不可思議さというものを感じる。それはそこに生神が生まれるという、生神が生まれるという事は自分の心だけのことじゃない、自分の周辺にも神様が誕生しようと一生懸命しござる。もうその人の周囲にいつも生神が生まれようとしてござるけれども、それを、人間心で消してしまっておる。
 いやあ、だから、ここんところは本当に信じて分かったらね、もういよいよ信心が楽しい、有難いことになる。生神がもうそれこそ日に何人でも生まれなさる、ここへ。ね、もうその、生神様の中に自分が住まっておることです。もちろん、自分の心の中にも生神が生まれてくる。そういう生き方を一つ体得して、身に着けていきたいですね。
 どうぞ。